白鴎大学 HAKUOH UNIVERSITY

教育学部

学部長あいさつ

教育学部長 小泉 祥一

教育学部長 益田 勇一

日本語では「教育」と訳される英語のeducationやドイツ語のErziehungのもとになったラテン語のeducatio, educatusは「外へ導き出す」という意味でした。こうしたラテン語の意味は現代語のなかにも受け継がれているわけですが、この「導く」という語の背後にはどうしても神の存在を感じ取ってしまいます。実際に、世界で最初の幼稚園を創設したことで知られるフレーベルは、教育とは人間が自分の内側にある神性を実現するための方法を提示することであると考え、そのフレーベルに影響を与えたスイスの教育学者ペスタロッチは教育を神が子どもに賦与した能力を呼び起こすことであると考えました。このように教育を意味する外国語には、神によって人間に与えられた能力を導き出すという考え方が込められているようです。神とはもちろんキリスト教の神のことですが、キリスト教以前の世界ではどうだったのでしょう。

古代ギリシアの哲学者プラトンが興味深いことを述べています。彼はまず、当時一般に流布していた教育観を否定します。それは教育とは知識を与えることだという考え方です。今日でも教育とは何も知らない子どもたちに様々な知識を授けることだと考えている人は多いかもしれません。プラトンはそのようには考えず、教育とは魂を向け変える技術であると言っています。魂とは物事を正しく知るための働きを担う器官、あるいはその能力のことを意味しています。現代における脳や精神、思考力のことだと思えばよいでしょう。そして、向け変えるとは、誤った方向を向いていた魂を本来あるべき方向へと転換することで、例えば、真理の方へと魂の向きを変えてやりさえすれば、魂はそれを認識できるというわけです。プラトンもやはり魂は初めから何かを知る力や考える力を有しており、その能力を発揮できるようにすることが教育であると考えているようです。

人間の眼は身体の片側にしかないので、一定の方向しか見ることができません。別のものを見るには身体の向きを変える必要があります。子どもたちが向きを変えようとするとき、その身体にそっと手を添えて転換を助けてやること、向きを変えた視線の先に展開するこれまで知らなかった光景への驚きと知ることの喜びを共有すること、先人たちが教えてくれる教育とはそのような仕事なのだと思います。

2019年4月